去る8月2日、麹が出来上がった日の夜、

2代目新谷末彦が数え100歳を以って永眠いたしました。
今日は夕方お天気雨が降り、大きな虹がかかりました。
祖父が虹の橋を渡って行くのが見えたような気がしました。
重たかろうに、その手には「わかむすめ」があったような。。

まだ祖父が元気な頃は、事務所に私と机を並べ、

昔話を毎日聞かされていました。
先代に子がいなかったため、9歳で新谷家の養子に迎えられ、
学校から帰ると酒の配達など仕事を手伝わされていたそうです。
1秒も無駄にするなと厳しく教えられたとか。
大変苦労したのではないかと想像します。
学生時代は運動神経が良くとてもモテて、
恋文をもらっていたけれど、
同じように3歳で養子に迎えられた祖母(先代の妻の姪にあたる)と結婚したと話していました。
2人の女児に恵まれたことから「和可娘わかむすめ」が誕生しました。
最盛期には500石(90,000L)地元の皆様にご愛飲いただいたという。
今では信じられませんが。。
仕事に熱心で努力家であった一方、多趣味でもあり、
野菜づくりが上手で、鮎釣り名人、尺八名人でもありました。
仕事の傍ら尺八の教室も開いていたそうです。
そんな祖父の娘たちがそれぞれ嫁に出て、
孫であった義直が3代目として継いだものの、
長らく嫁が来ず、大変心配していました。
私が嫁に来ると決まった時は、誰よりも喜んでくれました。
「ふみちゃん、ふみちゃん」と可愛がられ、
長女、長男が生まれた時は、本当に喜んでくれました。
まだ歯も生えない赤ちゃんに、
自分が食べていた煎餅を食べさせようとしたり、
あの頃はみんなで大笑いしていました。
大正生まれの祖父とは、ジェネレーションギャップという言葉では収まりきらない、
様々な問題もありました。
私ときたらいちいち口答えして、あまり良い嫁ではなかったと、今思い返しても思います。
だけど亡くなる数週間前、
全国新酒鑑評会での入賞の報告と、お酒を持って行きました。
コロナの影響で直接面会はできなかったものの、
後日看護師さんより聞きました。
この頃より嚥下機能が低下していたけれど、
「ほぉん」と言って2合程度少しずつその酒を呑んでくれていたと。
私は嫁だけれどいつの間にか祖父の孫娘になり、
酒を一生懸命造ってくれていると自慢げに笑っていたと。
最後にこの酒を呑んでくれて、心の底から嬉しく思い、
そしておじいちゃん孝行のようなものができて良かったと、
涙が滝のように流れたのでした。
毎晩わかむすめを呑み、
「わしは100まで生きて日本酒が身体に良いことを証明する」
というのが祖父の口癖でした。
見事に実現したのです。
その人生は新谷酒造の歴史より長く、
日本酒をこよなく愛した人でした。
祖父の志を受け継ぎ、新たな歴史を刻んでいけるよう、
私たちは今以上に精進していこうと心に誓いました。
おじいちゃん、これからもずっと見守っていてね。